元少年A絶歌について 写真は昨日のタンク山 まず、始めにご無念の最期を遂げられた、土師淳君や山下彩香さんのご本人やご遺族に衷心より哀悼の誠を捧げます。 写真は地元に途轍もなく暗い影を落とした場所、 いや、全国に少年犯罪の象徴となった、元「透明な存在」の彼が歩んだ場所です。 何だこんな本、ってゆう方も多いかも知れません。 でも社会は、どんな辛い事件や事故などに対しても目を逸らしたいとか盲目になってはならないのではないでしょうか? 決して他人事とは考えず、我が事として少しでも明るい社会になるように、 彼から発せられる言葉から社会が進むべき方向性や改めるべき何かを得る物があるのではないかと探求する事も時として必要なのではと思います。 彼はたまたま育った環境に左右されてしまい、あの様な凄惨な事件を起こしてしまったのだろうと思います。 環境とは何も家庭に限らず社会もです。 時折思うのですが、私自身もたまたま育った環境で街の犯罪者に成らずに、比較的変凡な人生を送れている事に日々感謝をしています。 この事件の後に、街中を子供がよく見えて事件が起こりにくいようにと、この辺りは視界を妨げたりするからと、背の高い木は上部を剪定されました。 私は人々が犯罪の抑止に着目したこの剪定には心が通う物を感じませんでした。 何も剪定という行為を否定しているのではありません。 ここ新興住宅地・須磨ニュータウンには一部分歪んだ、親も子供もある種の競争社会に毒された冷徹な一面があるように思います。 簡単に言うと自分達さえ幸せなら他人がどうなろうと感知しないという様な風土が少しだけあったようにも思います。 勝ち組・負け組という言葉が存在するのは、社会のある種の歪みを示していると思います。 彼が発した言葉、 「義務教育を生み出した社会への復讐」 これにもこの地の風土や現代社会が抱える改善すべき問題点と相通じる物があると思います。 彼の本にはその様な背景には触れられていませんでしたが、この事からも彼は進むべき方向を誤ってしまったのではないかと思います。 私には現在でも当時の彼の復讐については理解が極めて困難です。 しかし家族に留まらず、社会が彼を守ってあげられなかった事が、あの様な哀しい末路となってしまった一つの要因になったのではないか?と考えます。 守るとは、もっと社会はどんな他人にも興味や関心を持ち、繋がりや心遣いを自然体で行える様に歩んで行くべきと言う事ではないかと思います。 「人」とはお互いが支え合って初めて、人や社会を成すと思います。 あるいは、人の一本は男性で、もう一本は女性でお互いが支え合っている、と考えても良いとも思います。 彼はこの本の中で「愛」についても語っていました。 私見ですが、この世の中に「社会愛」なる物がもっと多方面に、より幅広く行き渡るべきと望んでいます。 少しでも明るい社会になる一助として、 彼の本をあらゆる人々に読んで、問題点に気づいて考えて実践して頂けたらと思います。 己れの幸せを追求する事に重点を置き過ぎたあまり他人を不幸にしており、 ひいては自分達の社会をも不幸にしている一面もあろうかと思います。 人は誰でも大なり小なり間違った事をすると思います。 それでも多くの人は自分達は綺麗と思いたいですし、自己否定される事を嫌います。 臭い物(理解が出来ない者)には蓋をする、過ちを犯した人達へは背を向け社会から抹殺せしめる、そんな社会にはならないように、 皆んなで考えて、より良い社会に一歩でも近づけるよう不断の努力をする事の方が、明るい社会への実現に結び付くと思います。 明るく楽しい事だけに注目し、陰に背を向け事の本質を考えず避け続ける事は、本当の意味での明るい社会の実現には繋がらないと思います。 皆さんは、歴史については例えば浅間山荘事件やもっと昔の桜田門外の変や更に遡れば比叡山焼き討ちなどについては、色々と興味を示して論じていますが、そんな事を論じている時間があるなら、 現在を生きる為に、現在に続く事件などについて、それらから今の社会を改善する為のヒントが何なのかを論じたり考えて実践する事の方が重要と思います。 もちろん、歴史とは違い現に被害者や遺族がいて、被害者の方々の感情に思いをはせると、中々そうは出来ないとは思います。 しかし、これもいずれは歴史に組み込まれる事ですよね。 被害者感情に配慮をしていて、社会が手をこまねいたり、盲目や避けているようでは、その方が社会的な損失が大きく現在を生きている意味がなく未来への汚点と思います。 被害者の方々には申し訳ない言い方にはなります。 歴史を学ぶとは、過去から現在に至るまでの間で、現在の社会に生かすべき事があるからこそ学ぶのだとは多くの方々はそう言いますが、単に皆さんは興味本位で学んでいるのでしょうか? 歴史の中に凄惨な出来事は何度も繰り返されて来ましたが、 昔なら歴史の記録を多くの人が知る事がしずらい時代もあったので、学んだり論じたり実践は出来なかったでしょうが、 これだけ情報が発達した世の中において、 今は十分に考えたり行動に移せる下地があるインターネット時代なのに、その情報を敢えて言うなら「今でしょっ!」と考えて今に生かそうともしない、社会は事件の事の本質については学ばず、 歴史からはただ興味本位の視点からしか学ばないのは、実は考えているのではなく歴史から学んでいると言う発言は、 ただ単に遊んでいるだけや、自分達の人生の装飾品としているだけの事で、現在に生かすべきとの視点に限って言うならば、何の意味もなしてはいないです。 肯定・ご批判でも何でも構いません。 皆さんはどうお考えになりますか? 一地元住民より。
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